はじめに
白内障手術を受けた方から、こういう声を聞くことがあります。
「手術は成功したと言われた。視力も出ている。でも、なんとなく満足できない」
こういう方は、決して珍しくありません。むしろ、私が想像している以上に世の中に多いのではないかと思っています。
この記事では、術後の幸福度が何によって決まるのかを、実際の研究データをもとに整理します。ただし最初にお断りしておきたいことがあります。この記事は「気の持ちようで解決しましょう」という話ではありません。 むしろ、その正反対から始めます。
第1章|まず、我慢しなくていいものの話から
一番大事なことを先に言います。
術後の不満には、治せるものと、治せないものがあります。そして治せるものを我慢している人が、非常に多い。
以下は、すべて医学的な対応の対象になります。心の持ちようの問題ではありません。
- 残余屈折誤差(近視・遠視が残っている)
- 残余乱視(トーリックレンズが使われていない、あるいは軸がずれている)
- 後発白内障(術後数か月~数年で濁ってくる。レーザーで数分で解決する)
- ドライアイ(手術後に悪化することがあり、見え方の質を大きく落とす)
- ディスフォトプシア(光がにじむ、輪が見える、影が見える)
- 黄斑浮腫(術後に網膜がむくむ。治療対象)
「手術はうまくいっています、こんなものです」と言われて帰ってきた方。その言葉で納得できていないなら、それは納得しなくていい可能性があります。もう一度、別の目で診てもらう価値は十分にあります。
この記事の残りは、ここを一度きちんと調べたうえで「特に問題はありません」と確認できた方に向けたものです。 順番を逆にしないでください。調べる前に心の話をするのは、ただの言い訳になってしまいます。
第2章|視力が出ていても満足できない人は、実際にいる
ここで一つ、重要な研究を紹介します。
Kinard らの研究(J Cataract Refract Surg. 2013)は、非常に厳しい条件で対象者を選びました。2,953人の中から、合併症のない手術を受け、矯正視力が十分に出ていて、後発白内障もドライアイもない、術後1年以上経過した70人だけを抽出したのです。つまり「不満が出るはずがない人たち」を集めた研究です。
それでも満足度にはばらつきがありました。そして唯一の不満要因として残ったのが、ディスフォトプシア⸺光のにじみ、まぶしさといった光学的なノイズでした。
同じグループの Welch らの研究(Can J Ophthalmol. 2010)でも同じ結論です。矯正視力20/20以上の患者61人を対象にしたところ、不満と有意に相関したのはディスフォトプシアだけ(r = 0.602,p < 0.0001)。矯正視力、裸眼視力、後発白内障、前嚢の重なり具合は、いずれも満足度と相関しませんでした。
つまり、「視力が出ている=快適」という前提そのものが成り立たないということです。これは気のせいではなく、実在する光学現象です。だからこそ第1章を先に置きました。
第3章|たった1つのこと⸺あなたは、何と比べていますか

ここからが本題です。
第1章のチェックを終えて、「治すべきものは特にありません」と確認できた。それでも、どこか満足しきれない。そういうときに効いてくる要素が、たった1つあります。
あなたが、何と比べているか。
2004年に発表された Pager の研究(Arch Ophthalmol. 2004)は、白内障手術を受ける121人を術前と術後1か月で追跡し、満足度が何によって決まるのかを調べました。
結果は、多くの人の直感を裏切るものでした。
- 患者の理解度、期待、達成した視機能スコアは、いずれも満足度と相関した
- しかし他の因子を調整すると、独立して満足度を予測したのは「期待と達成のギャップ」だけだった
- そして⸺視機能がどれだけ改善したかは、満足度と相関しなかった
論文の結論はこうです。術後成績を改善することよりも、患者の期待をコントロールすることのほうが、満足度を最大化するうえで有効かもしれない。
言い換えると、こうなります。
同じ目、同じ見え方でも、比較の相手が変われば幸福度は変わる。
理想の目と比べれば、全員が不満になる。 手術前の自分と比べれば、全員が改善している。
これが「たった1つのこと」です。感謝しましょう、という話ではありません。あなたの中で比較の対象が無意識にすり替わっている、という認知の話です。
第4章|なぜ、比較の相手は勝手にすり替わるのか
ここには理由があります。人間の脳の仕組みの問題です。
心理学と医療の分野では「レスポンスシフト(response shift)」と呼ばれる現象が知られています。健康状態が変化すると、人は自分の内的な基準・価値観・生活の質の概念そのものを書き換えてしまう、というものです。基準の再較正、優先順位の組み替え、概念そのものの再定義⸺この3つが起こります。
これは悪いことではありません。人間が新しい状態に適応するための、優れた仕組みです。
でも、この仕組みには副作用があります。
手術直後、あなたは「見えるようになった」ことに素直に感動します。ところが数か月すると、脳はその状態を「当たり前」として基準に組み込んでしまう。すると比較の相手が、手術前の自分ではなく、あるべき理想の目にすり替わる。同じ見え方なのに、感動が消えて、不足だけが目につくようになるのです。
興味深いのは、これがまったく逆方向にも働くことです。大きな病気をした人が「健康に勝るものはない」と言うようになるのも、同じ仕組みです。健康を失ったからこそ、比較の相手が「健康だった頃の自分」に固定される。だからその価値が見える。
つまり⸺
「健康のありがたみ」は、失っている間だけよく見える。 取り戻した瞬間から、また見えなくなっていく。
術後の不満の相当な部分は、実は手術がうまくいったことの副作用なのです。
第5章|先人たちが、同じことを言い続けてきた

この話は、実は何百年も前から繰り返し語られています。有名な言葉をいくつか紹介します。ただし、この分野は出典不明の「偽名言」が非常に多いので、原典を確認できたものだけを挙げます。
ラルフ・ワルド・エマーソン
「第一の富は、健康である」
19世紀アメリカの思想家・エッセイスト。『The Conduct of Life』(1860) の「Power」の章に、この一行があります。
彼自身、20代で結核の症状に加えて目の不調を抱え、療養のためフロリダへ渡っています。最初の妻エレンは結婚時すでに結核で、1831年、19歳で亡くなりました。この言葉は、健康な人が余裕から書いたものではありません。
アルトゥル・ショーペンハウアー
「われわれの幸福の10分の9は、健康だけにかかっている」
19世紀ドイツの哲学者。「人生は苦しみである」と説いた厭世主義の代表者で、『幸福について(Aphorismen zur Lebensweisheit)』(1851) にこの一節があります。同じ本の中で、健康を何かのために犠牲にすることは、あらゆる愚行のうち最大のものだ、とまで書いています。
彼は書いただけではありませんでした。1831年にベルリンでコレラが流行したとき、さっさと街を離れて南へ移っています。ベルリンに残った同時代の大哲学者ヘーゲルは、その年に亡くなりました。
ショーペンハウアーは72歳まで生きています。
そして、スティーブ・ジョブズ
「死を前にして、富も名声も色あせて無意味になった」という長文の「最期の言葉」が、日本でも広く出回っています。
これは、完全な作り話です。
拡散が始まったのは、ジョブズが亡くなった2011年から4年後の2015年11月。初出は個人ブログで、本人との関連を示す証拠は一つもありません。遺族もAppleも、一度も内容を認めていない。検証サイトSnopesが作り話と断定しています。
でも、私はここが一番おもしろいところだと思っています。
「健康こそが一番大事だった」という考えは、あまりに説得力がある。だから人類は、世界一の成功者の口からそれを言わせるために、偽の遺言まで作ってしまった。 しかも偽物だと分かってからも、いまだに共有され続けている。
本物の名言よりも、この一件のほうが雄弁かもしれません。
⸺ここで、一つ気づいてほしいことがあります
並べてみてください。この言葉を残しているのは、全員が「健康を失った側」の人です。
病んだ人。妻を病で亡くした人。そして病床という設定で語らされた偽の言葉。
健康なときに、健康の価値を言語化できた人が、ほとんどいないのです。それは人が薄情だからではなく、第4章で見たとおり、脳がそういう仕組みだからです。
そして⸺白内障手術で見え方を取り戻したあなたは、今、どちら側にいますか。
第6章|「もうちょっと」の正体
もう一つ、知っておくと役に立つ話があります。
「だいたい見えている。でも、もうちょっとここが見えたらいいのに」
この「もうちょっと」が、いつまでも止まらない方がいます。一つ叶うと次の「もうちょっと」が出てくる。これは目の問題ではありません。意思決定のスタイルの問題です。
心理学者の Schwartz らは2002年、人間を「最大化志向(maximizer)」と「満足化志向(satisficer)」に分ける研究を発表しました(J Pers Soc Psychol. 2002;83(5):1178-97)。最大化志向とは、常に最良の選択を追い求めるタイプです。
7つのサンプルを解析した結果は明快でした。
- 最大化志向は、幸福感・楽観性・自尊感情・人生満足度と負の相関
- 抑うつ・完全主義・後悔とは正の相関
- 同じ選択をしても、最大化志向の人のほうが満足度が低い
- 他人と比べたときのダメージも大きい
もしあなたが「もうちょっと、もうちょっと」と思い続けているなら、それは目が悪いからではなく、あなたの選び方の癖かもしれない、ということです。
これは責める話ではありません。自覚できれば止められるという話です。「これは目の問題じゃなくて、自分の癖だな」と気づいた瞬間に、その連鎖は切れます。
第7章|あなたのレンズが、あなたに何を渡したか

レンズ選びには、必ずトレードオフがあります。あなたは何かを手放し、何かを手に入れました。
不満が出るときは、たいてい手放したほうだけを見ています。両方を並べてみてください。
| 手放したもの | 手に入れたもの | |
| 単焦点レンズ | 近くの裸眼視力(老眼鏡は必要 なまま | 遠くの圧倒的な鮮明さ。光学的なノイズが最も少なく、コントラストが最も良い |
| PureSee(ピュアシー) | 完全な眼鏡フリーではない。ごく細かい作業では補助が要ることも | 老眼鏡からのかなりの解放。EDOFとして見え方の質を保ったまま、中間~近方が使える |
| PanOptix Pro (パンオプティクス プロ) | コントラストの一部と、光のに じみが出る可能性 | ほぼ眼鏡のいらない生活。遠く・中間・近くのすべてに焦点が届く |
ここで確認したいことがあります。
単焦点を選んだ方へ。遠くが、驚くほどきれいに見えていませんか。 手術前、その遠くはどう見えていましたか。
PureSee を選んだ方へ。以前は本を読むにも、値札を見るにも、スマートフォンを見るにも老眼鏡が必要でした。今は、どうですか。
PanOptix Pro を選んだ方へ。眼鏡をかけずに一日を過ごせていませんか。 それは、10年前には存在しなかった選択肢です。
手放したものは、あなたが自分で選んで引き受けたものです。手に入れたものも、同じくらい確かに、あなたのものです。
第8章|満足度の高い方たちが、共通して言うこと
私は年間およそ1,500件の白内障手術を担当しています。その中で、術後に本当に幸せそうにしている方たちには、はっきりした共通点があります。
あの人たちは、手術前の自分をよく覚えています。
「あの頃は夜の運転が怖かった」 「white board の字がにじんで読めなかった」 「色が全部くすんで見えていた」
そして今の見え方を、必ずそこと比べる。老眼鏡が必要でも、「まあ、かければいいか」で終わる。
なぜなら比較の相手が理想の目ではなく、見えなかった頃の自分だからです。
これは性格の問題ではありません。記憶の問題です。そして記憶は、意識的に呼び戻すことができます。
実践|比較の相手を、自分の手で戻す
レスポンスシフトによって失われるのは、比較対象そのものです。であれば、対策は単純です。比較対象を、記録して残しておけばいい。
これから手術を受ける方へ
- 術前の視力・見え方の検査結果を、コピーでいいのでもらっておく
- 「今、何が不便か」を3つだけ、自分の言葉で紙に書いておく (例:夜の運転が怖い/新聞の小さい字が読めない/色がくすんで見える)
すでに手術を受けて、不満を感じている方へ
- まず第1章のリストを、必ず一度チェックしてもらう
- そのうえで、手術前にできなかったことを3つ思い出して書き出す
- 今、その3つがどうなっているかを確認する
書き出すことに意味があります。頭の中だけでやると、脳はすでに書き換えられた「当たり前」の基準で判断してしまうからです。
おわりに
念のため、もう一度だけ書いておきます。
この記事は、精度の高い手術が行われていることを大前提としています。
正確な術前検査、適切なレンズ度数の決定、乱視への対応、丁寧な手術。それがあって初めて、この話は意味を持ちます。技術的に改善できる余地を残したまま「気の持ちようです」と言うのは、医療者の側の怠慢です。
そのうえで、こう思います。
治せるものは、すべて治す。 そして治しきったあとに残るものについては、比較の相手を選び直す。
その2つが揃ったとき、術後の幸福度は最大になります。
見えるようになったこと。それ自体は、決して当たり前ではありません。
参考文献
- Pager CK. Expectations and outcomes in cataract surgery: a prospective test of 2models of satisfaction. Arch Ophthalmol. 2004;122(12):1788-1792. PMID: 15596581
- Kinard K, Jarstad A, Olson RJ. Correlation of visual quality with satisfaction and function in a normal cohort of pseudophakic patients. J Cataract Refract Surg. 2013;39(4):590-597. PMID: 23395326
- Welch NR, Gregori N, Zabriskie N, Olson RJ. Satisfaction and dysphotopsia in thepseudophakic patient. Can J Ophthalmol. 2010;45(2):140-143. PMID: 20379298
- Schwartz B, Ward A, Monterosso J, Lyubomirsky S, White K, Lehman DR. Maximizingversus satisficing: happiness is a matter of choice. J Pers Soc Psychol.2002;83(5):1178-1197.
- Tielsch JM, Steinberg EP, Cassard SD, et al. Preoperative functional expectations and postoperative outcomes among patients undergoing first eye cataract surgery. Arch Ophthalmol. 1995;113(10):1312-1318. PMID: 7575266
- Schwartz CE, Sprangers MAG. Adaptation to changing health: Response shift in quality-of-life research. American Psychological Association; 2000.





