脳科学と臨床データが示す、見落とされてきた視点
白内障手術でレンズを選ぶとき、こんな説明を受けませんでしたか。
「このレンズなら遠くも近くも見えて、眼鏡が要らなくなります」
確かに、眼鏡なしで生活できるかどうかは大切な情報です。しかしそれだけを基準にレンズを選ぶことには、見落とされがちな問題があります。
眼鏡からの解放と引き換えに、脳が毎日疲弊し続けるレンズを入れてしまうかもしれないのです。
この記事では、脳科学の研究データと臨床の現実をもとに、「眼鏡依存度」だけではわからないレンズ選びの本質をお伝えします。
「眼鏡不要」は測りやすいが、それだけでは語れない

多焦点レンズを評価する研究論文の多くは、「術後に眼鏡が不要になった患者の割合」を主な成果指標として報告してきました。数字として出しやすく、患者にも伝わりやすい。そのため、医療者も患者も「眼鏡不要率が高い=良いレンズ」という図式に慣れてしまっています。
しかし最新の比較研究は、この図式に疑問を投げかけています。3焦点レンズ・EDOF(焦点拡張)レンズ・ブレンド(組み合わせ)の3グループを比較した研究(Scientific Reports, 2022)では、「EDOFグループは近方視力では最も劣ったが、視覚の質は3グループ中で最も良好だった」と報告されています。一方、3焦点グループは最広範囲の視力を達成したものの、ハローやグレアなどの光学的不快感は有意に多かった。
つまり「眼鏡が要らない距離の幅」と「見え方の質」は、必ずしも同じ方向を向いていません。眼鏡不要率だけを見ていると、この逆転が見えなくなります。
眼鏡が要らない代わりに、脳が働き続けている

なぜ「見え方の質」と「眼鏡不要率」がずれるのか。その答えが、近年の脳科学研究から見えてきています。
多焦点レンズ(特に回折型)は、光を複数の焦点に物理的に分割することで遠近両用を実現します。その結果、目に届く映像には常に「遠くの像」と「近くの像」が重なっています。脳はそのつど「今見たいのはどちらか」を選び続けます。
多焦点レンズを入れた患者のMRIを撮影した研究(コインブラ大学 Rosa et al., 2017)では、術後数週間の患者が物を見ているとき、集中力・判断力・目標志向的な行動を司る脳の部位が通常より多く稼働していることが確認されました。普通に物を見ているだけで、脳がフル回転している状態です。
「夕方になると目が疲れる」「読書が長続きしない」「なんとなく頭が重い」——これらは目の問題ではなく、脳が一日中この選択作業を続けた結果として説明できます。
非回折型のEDOFレンズ(例:Vivity)は、光を分割せず焦点を連続的に伸ばすことで視野を広げます。競合する像が発生しないため、脳が「どちらかを選ぶ」作業を繰り返す必要がなく、脳への処理負担が理論上低いと考えられています。
「慣れればよくなる」は、全員には当てはまらない
多焦点レンズの脳への負担は、多くの場合、数ヶ月かけて軽減します(Rosa et al., 2017 縦断研究)。脳が新しい見え方に慣れ、選択作業を省力化していくプロセスです。
しかし、全員がうまく慣れるわけではありません。
慣れない場合のパターンには2種類あります。
① 脳が疲弊し続けるパターン:検査では異常がないのに「なんとなく見えにくい」「ぼんやりする」という状態が続く。後囊混濁・ドライアイ・網膜の問題がすべて除外されても改善しない場合、脳の過剰稼働が背景にある可能性があります。
② 見えにくさを受け入れてしまうパターン:脳が選択作業を省力化する方法として「近くの像を無視する」という解決策をとる場合があります。「慣れた=脳が諦めた」状態です。「以前より近くが見えにくくなったが、まあこんなものか」という言葉で表れます。視力の数字は出ていても、実際の生活の質が知らないうちに下がっているケースです。
「やはり合わない」——交換しても抜け出せない袋小路
どうしても慣れない場合の最終手段として、レンズを取り出して別のレンズに交換する手術があります。スペインの国内調査では、多焦点レンズの取り出し原因として「神経適応の失敗」が上位に挙げられています(Alió et al., 2017)。
では、交換すれば解決するのでしょうか。多焦点レンズから単焦点レンズへの交換を行った13名(26眼)を詳細に追跡した研究(Al-Shymali et al., Eye and Vision, 2022)が、この問いに答えています。
交換後に良くなったこと:ハロー・グレア・ぼやけといった光学的な不快感は有意に改善しました。遠方の視力も改善しました。
交換後に悪くなったこと:近方の裸眼視力が有意に悪化しました。そして、近方の眼鏡不要という状態は、全例で完全または部分的に失われました。
この結果を踏まえて患者に尋ねました。
「最初から多焦点レンズを選びますか?」→ YES:0名(0%)
「単焦点レンズへの交換をやり直しますか?」→ NO:10名(77%)
つまり患者は、多焦点レンズにも戻りたくない。でも交換手術もしたくなかった、という状態に置かれています。著者はこの矛盾をこう説明しています。「患者が交換を後悔した主な理由は、最初に求めていた『近くが眼鏡なしで見える生活』が、交換後も実現できなかったからである」と。
光学的な不快感を取り除くために近方視力を犠牲にした。でも近方の眼鏡なし生活こそが、最初にその高価なレンズを選んだ理由だった。交換によって、一方の問題は解決したが、もう一方の夢は永遠に諦めることになった——これが「二重の袋小路」です。
なお、この研究で注目すべき点がもう一つあります。13名中12名が女性でした。著者も「女性が多焦点レンズの神経適応においてより不寛容である可能性がある」と指摘しており、今後の研究課題として挙げています。これが神経適応の性差を示すデータなのか、それとも多焦点レンズを選ぶ患者層の傾向なのかはまだわかっていませんが、女性患者への術前説明に特別な丁寧さが必要かもしれないことを示唆しています。
この連鎖は、最初のレンズ選びの時点で「眼鏡不要率」以外の情報が十分に提供されていれば、防げた可能性があります。
「眼鏡不要率」は、あなたの生活を保証しない
眼鏡が要らなくなることと、快適に見えることは、別の話です。
眼鏡不要率が高いレンズは、脳への負担が高いレンズと重なることがあります。この事実は、従来のレンズ選びの説明ではほとんど触れられてきませんでした。
レンズを選ぶ際に、もう一つの軸として問うべきことがあります。「このレンズを入れたとき、私の脳は毎日どれだけ頑張ることになるのか」という問いです。
仕事で長時間集中する人、夜間運転が多い人、光や眩しさに敏感な人、認知機能に不安がある人、70代以上の方——こうした背景を持つ方にとっては、見える距離の幅よりも脳への負担の少なさを優先することが、手術後の生活の質を大きく左右します。
眼鏡から解放されることは、確かに魅力です。ただしそれは目標の一つであって、唯一の基準にしてはいけません。
レンズ選びに迷っている方は、担当医に「このレンズを入れたときの脳への負担はどうですか」と、ぜひ聞いてみてください。その問いに正面から答えてくれる医師こそ、信頼できる相談相手です。
参照文献
1. Rosa AM, et al. fMRI and neurobehavioral impact of dysphotopsia with multifocal IOLs. Ophthalmology. 2017;124(9):1280–1289. PMID: 28433446
2. Rosa AM, et al. fMRI to assess neuroadaptation to multifocal IOLs. J Cataract Refract Surg. 2017;43(10):1287–1296. PMID: 29120714
3. Liu H, et al. Comparison of visual neuroadaptations after multifocal and monofocal IOL implantation. Front Neurosci. 2021;15:648863. PMID: 34194292
4. Al-Shymali O, et al. Multifocal IOL exchange to monofocal for neuroadaptation failure. Eye and Vision. 2022;9:40.
5. Alió JL, et al. Multifocal intraocular lenses: an overview. Surv Ophthalmol. 2017;62:611–634.
6. Xu X, et al. Visual outcomes with three IOL-based presbyopia correcting strategies. Sci Rep. 2022 Nov 15. doi:10.1038/s41598-022-23694-9
7. Almeida I, et al. Mapping the brain’s fatigue network. Brain Communications. 2025;7(5):fcaf315.
8. Smets EM, et al. The Multidimensional Fatigue Inventory (MFI). J Psychosom Res. 1995;39(3):315–325. PMID: 7636775





























